オークマ工塗
オークマ工塗物語
OKUMA STORY

オークマ工塗物語

そう社員に問いかけたのは、ものづくりの街東大阪の部品塗装業者、
オークマ工塗の社長 大熊重之だ。

「100年で変わるものは多い。」
1903年、初飛行に成功したライト兄弟が航空会社「ライト社」を設立した年が1909年。
2009年、今や人は空を超えて宇宙に飛ぶ。

「100年の中で生まれるものも多い。」
かの巨匠漫画家、手塚治虫氏ですらも携帯電話の存在は予想できなかった。
2009年、人間の子供そっくりのロボットはまだ開発されていないが、小学生が携帯電話を持つ時代になっている。

「100年の中で消えてゆくものもある。」
蒸気機関車。モールス信号。それから、それから・・・

大熊は社員に問いかけた。「塗装」は、残るのだろうか?
いや、塗装どころか、一体何が残っているのだろう?

残るものをいろいろ考えた。社員たちと話し合った。
ある結論に結びついた。

何が残るかが分からなくても、企業として残すものは「感動させること」であると。

一流の腕を持ち威厳のある父。
戦後まもなく25歳で大正塗装を設立。

オークマ工塗の前身は大正インダストリーという塗装会社だ。
父である正明が始めて、現在重之の兄である長男正裕が継いでいる。

大熊正明。現在76歳。
激動の昭和を生き抜いた、我々の大先輩である。

正明が中学二年生の時に第二次世界大戦が終わった。
戦後である。食べ物が無い。田舎に買出しに行く日々であった。

塗装業に就いた。 当時需要が多かったものの中に黒塗りのミシンがある。
ハケを使うが、ハケ目を無くして塗るのが職人の技であった。

腕を認められて引き抜きがかかることは日常茶飯事。
正明は悩んだ。
職人として雇われてゆくのがよいのか、独立するのがよいのか?

もともと人に使われるのが嫌な性格。選んだ道は独立。
25歳で自分の名前から「大」と「正」を取り、「大正塗装」を設立した。昭和34年のことだった。

息子たちから見ても威厳のある父。
「偉い」と「偉そう」の違いは父を見ればすぐ分かる。
もちろん、ただ厳しいだけではない。
誰と話していても回転が速い。発想がユニークで、豊かなのだ。

 

周りとは違う眼を持ち時代の
「これから」を見ていた父

こんなエピソードがある。
今から30年ほど前だろうか、世の中にFAXが出だした。
「持っている人が少なければ、役に立たない」と、周りが導入を躊躇していた。しかし、父はいち早く導入した。そして、周りにこう言った。

「自分の都合だけ考えていては駄目だ。
相手の立場に立たないと・・」

そして「これがあるから、新しい取引ができる。」
常に前向きに、常に顧客目線、そして常に時代の「これから」を見ていたのだ。

他社が少ない得意先からの集中した受注に必死だったころ、 正明は得意先の数を増やし、売上を分散させることに奔走した。
「一顧客だけの売り上げだけを求めてゆくのは、危険だ。
塗装業は下請け、お客が良い時は問題ないが、その逆もある」

と世の中がバブル経済に浮かれている間に、すでに崩壊以降のあり方を説いた。

大熊はそんな父の姿を見て育った。そんな父の言葉を心で聴いた。
そして、父の宝刀である、リーダーシップを受け継いだ。
学生時代、数々の運動部を経験するが、大熊は常にキャプテンだった。

父が息子に施した帝王学が、「勉強するな」であった。
しかし、父は「ゴルフの理論」を一生懸命勉強していた。
その時ばかりは「どないやねん・・・?」と思った。

職人である父に、もちろんあこがれた。
学校を卒業すると同時に、父の会社に入社した。

血は争えない。

数々の塗装技術を2年で修得し、その後営業部門に移った。

数々の顧客の心を掴んだ、
大熊重之オークマ工塗の誕生へ

現在のオークマ工塗事務所。 社員各自にPCがあり、LAN回線でつながっている。

それから15年間、塗装をマスターしている営業として、数々の顧客の心を掴んだ。
時として自らも作業にあたるその姿が、信頼を勝ち取った。

やがて兄が大正塗装(現大正インダストリー)を継ぐことになる。
大熊は副社長として腕を奮った。

しかし、社長と副社長が兄弟であるということに、
時として責任の所在が明確でなくなることもあった。 小さな亀裂が、意図せぬところで大きな溝になることもある。

従業員のことを一番に考え、兄と話し合った。

そして、2000年5月1日。

大熊は株式会社オークマ工塗を設立した。
たった4人での設立。不安はあったが希望を奮い立たせた。

設立当初は親会社である大正塗装の仕事が100%だった。
しかし、顧客の紹介で徐々に仕事が増えた。
がむしゃらに働いた。

設立から2年。ついに大正塗装からの仕事の比率が無くなった。
それは、大熊の、本当の意味での独立を意味した。

利益よりもだいじなもの
それはお客さまからの満足度

塗装のことをもっと知りたい。知りたい。知りたい。
大熊は知識習得に貪欲になった。

なぜなら、塗装業にも手吹き塗装、電着塗装、スピンドル塗装と色々あるが、それぞれは他がそのようなことをしているのか知らない。

つまり、自分が行っている塗装以外の案件は他に丸投げで依頼するしかないのだ。

他社に依頼することが不利益だという訳ではない。
ただ、知識を得て、顧客に説明できるだけでも満足度に繋がると信じたからだ。

鉄なら鉄専門の塗装業、プラスチックならプラスチックのみの塗装業。
その考えでは「これから」が無い。知識の上での垣根を取り払って勉強した。すべては顧客の要望に即答するためだ。

そのために、どのような仕事、案件も断らなかった。
できるノウハウを持つ会社、職人を自らの足で探した。

どうやったらお客さんが満足してくれるか。ただそれだけを考えた。
それが自分の知識になった。

その結果、おのずと扱える塗料も増えた。

塗装に限らず、本当のプロフェッショナルとは、なんだろう。
一人の職人として、狭く生きるのではなく。
答えを持つために広く生きることを考えた。目指した。

父とは違う、初めての一歩を踏み出した。

 

ある転機がおとずれ、
社員が楽しみ熱く語り輝き始めた。

社員が主体性を持って活躍する場を目指す。

ある時、顧客に言われた。
「社長以外に話しできるやつがおらん!」
あまりに深く、大きく、大熊の心に響いた。

そこからが新しい勉強だった。
「すべての社員が、顧客から信頼を得るには」
オークマ工塗では、塗装に関する全てを社員が楽しみ、熱く語れるように考えた。

会社理念ひとつにしても、創る際は社員全員から言葉をもらった。

そしてそれを文章にする。
築き上げるところから全員で行う、それこそが理念だと感じた。

社員からアイデアが出だした。
例えばブルーオーシャン戦略。競争のない市場を探し、顧客を創る。

それは「ないものをやってあるものをやめる」という信念であり、父から受け継いだ感性だ。

また社員からアイデアが飛び出す。
「塗装を60分でやってみてはどうだろう」

まだ世の中にないサービス。誰もが待ち望んだサービスだ。

職人からの意見もでた。60分は、どう頑張っても無理だ。

また営業メンバーから意見が出る。
「じゃあ、90分ならどうだろう?」

飛び交う意見。絶えない笑顔。共に考え、実行する。

大熊は常に胸を張る。
「他の塗装屋でうちと同じ方向性をもっているとこは無いと思います。確実に。」

大熊は、社員と共に考えだした、「試作塗装」を、未曽有の不況とされる現在の、塗装会社として生き残るための打開策とした。

製造メーカー、販促品会社、プロダクトデザイン等ものづくりの会社の困っていることに応えるということを「低価格のサービス」として入口に設定したのだ。

下請けではなく、「メーカーと直接の取引を」その狙いは見事に的中した。

同時に試作塗装の難しさも感じた。様々なお客様の様々な問い合わせ・・。
今まで培った多種多様な知識・ノウハウだけでは対応できないものもある。

お客様は様々です。そこは、大熊のチャレンジ精神が活躍できるところ ワクワクするところでもある。

各新聞、雑誌からの取材を受ける。
掲載された記事を見て、大手タイヤメーカーや大手自動車メーカーから「試作塗装」の直接依頼が来た。

父から譲り受けたスピリット。それは「先見の明」であり、そして、「世の中に無ければ、創る」である。

そんな大熊重之は、「社員と共に100年後を見る」社長なのだ。